かつては川越もその一員だった高麗郡〜高麗神社&聖天院 に編〜

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前回は高麗郡の歴史から「にじのパレード」のようすなどをレポートしました。

今週は、若光を祀る高麗神社とその冥福を祈って創建された聖天院を訪れます。

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長澤酒造から高麗川沿いを歩く。

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消防団のシャッターに描かれている謎の女性キャラ。

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ふと目について立ち寄った松福院。

後で調べたところ「古事記によれば武蔵国川越大字小仙波中院末寺」との記述。

https://sites.google.com/site/tyoujyusansyoufukuin/xie-zhende-jianru-song-fu-yuan-1

そうと知らずに訪れたのに川越に関係するなんて我ながら驚きです!

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‖ 高麗家住宅

そろそろ歩き疲れたなというところで、高麗家住宅に到着。

高麗家住宅は高麗神社の神職を代々勤めて来た高麗氏の住宅です。

http://www.komajinja.or.jp/komake.html

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建物の規模は桁行14.8m、梁間9.5mをはかります。屋根は入母屋造で茅で葺いていて、間取りは五室と土間からなっています。表側にある「おもてざしき」は21畳の板敷じきで、押板(現在の床の間の前身)を備え、前面には格子窓を設けてきます。「四帖」は張り「おく」の間の控えの間としての役割を持ち、「おく」には「とこ」が設けられています、「かって」の板の間にはいろりがきられ、土間の奥にかまどがあります。

建築年代は高麗家に伝わる文久3(1863)年の絵図面に慶長年間(1596~1615)に建てられたとの伝えがあると記されています。昭和51、52年度に行った解体修理でも棟札などの建築年代を示す資料は得られませんでしたが、建築様式や構造手法からおよそ17世紀後半頃と考えられています。

土間の方から中を拝見。

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「おく」の部屋、なんだかとても過ごしやすそうです。

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裏手には「幽栖門(ゆうせいもん)」があります。

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高麗家住宅は、下記のURLの俯瞰図にあるように高麗神社の奥に位置します。

http://www.komajinja.or.jp/buratto.html#keidai_00

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‖ 高麗神社

今回の「駅からハイキング」のルートは日高市役所から大回り。

高麗川駅からそのまま来れば、まず、一の鳥居が目に入ります。

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そして、突如現れるトーテムポールのような将軍標(チャングンピョ/장군표)

朝鮮・韓国の村落に見られる境界標(道祖神)なのだそうです。

その後ろは自動車のお祓い所となっています。

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二の鳥居、左手には芳名板がずらりと並んでいます。

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高麗神社に参拝した政治家が相次いで総理大臣となり、出世明神とも云われています。

芳名板はそれにあやかったもので、近年は俳優やタレントの名前もあるとか。

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参集殿に高麗郡交流サロンが設けられていると聞き、こちらを先に。

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階段を上がったところ、お札やお守りの授受。祈祷の受付もこちらで。

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中に入ると家系図と高麗神社の由来が記載されたパネルがありました。

高麗神社の御祭神 高麗王若光は、高句麗からの渡来人です。高句麗は紀元前1世紀に中国大陸北部に建国され、西暦668年に滅亡するまで、我が国とも交流があり、高麗とも呼ばれていました。

奈良時代の霊亀2(716)年5月に朝廷は武蔵国に故魔人を集め、高麗郡を置きました。その際、高麗王若光は当地の開拓に努力したと伝えられています。

若光の遺徳を偲んで建てられた霊廟が当社の始まりです。平安時代には、地域の有力な社として「大宮」の称号が許され、「高麗大宮大明神」と称されました。若光の子孫が代々当社の祭祀を掌り、今日に至っています。

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高麗郡交流サロン

前回、高麗郡の説明で使ったパネルはこちらに掲示。

お茶やお菓子も置いてあって一休みできるようになっていました。

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古代の服「高句麗装束」の展示。

紀元前37年に建国された高句麗は、高麗神社の御祭神「高麗王若光」の故国。668年、唐・新羅の連合軍に破られるまでの約700年間、東北アジアに栄えた高句麗は、その古墳に楽しく美しい壁画を残した。4~6世紀の古墳に描かれた風俗画や四神図からは、高句麗の生活や思想が垣間見られる。2004年にはユネスコの世界遺産にも登録された。ここに展示した装束は、その高句麗壁画を参考に再現したものである。(説明パネルより)

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壁画から装束の細部を確認できず、現存もしていないそうです。

あくまで壁画資料を参考に製作したものと補足がありました。

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御本殿へ

階段を上がると立派な御神門が迎えてくれます。

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こちらが反対側から見たところです。

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こちらが高麗神社の御本殿。昨年より増築が始まっていて見た目も新しい。

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‖ Cafe風(ふう)でランチ

気づくとお昼を随分と回ってました。

聖天院へ歩みを進めているとログハウス風のCafeを発見!

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手打ち蕎麦かカレーかという選択だったのでカレーをチョイス。

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味は辛口にしたら相当にスパイシーでした。

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‖ 高麗山聖天院

ほどなくして、高麗王若光の冥福を祈って建立された聖天院へ到着。

http://www.tesshow.jp/saitama/hidaka/temple_nibori_shoten.html

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高麗山聖天院の由来と文化財

今からおよそ1300年前の高句麗滅亡によって我が国に帰化していた人民のうち駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高句麗人1,799年を元正天皇の霊亀2(716)年武蔵国に移し高麗郡が置かれたことが続日本紀に見られるこの高麗の地は郡の中心をなし明治29年まで高麗郡であった。

高麗王若光は高麗郡の長として広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績をおさめた王は没後神に祀られ(現在の高麗神社)たが、その侍念僧勝楽は王の冥福を祈るため一寺を建立として果さず天平勝宝3年示寂したので、その弟守弘仁は聖雲(王の第三子)とともに師の遺志を継ぎ寺を建て師の遺骨を納めてその冥福を祈った。その寺が高麗山聖天院勝楽寺である。

王が祖国から守護仏として持って来た聖天歓喜仏を本尊としたので聖天院の名を持って知られている新義真言宗宗知山派に属しかつては門末50カ寺を擁した名刹で当代までに実に50世法燈は絶えること無く継承されている。

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山門の右手には、高麗王若光の墓とされる高麗王廟(諸説あり)。

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山門を見下ろす。本堂は山の中腹にあります。

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ふうふうと云いながら階段を上がると阿吽の石像が出迎えます。

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かなりの高台に上がって来たのがわかるでしょうか?

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境内からは日高の街が一望できます。

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2,000年に建立された新本堂。

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本堂を新築するために造成したときに出現した「雪山」

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下に降りてきました。高麗殿ノ池と庭園。

どこかと具体的には云えないけど微妙に日本式庭園と違う印象を受けます。

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‖ さあ、川越へ帰りましょう

最後はいささか駆け足になりましたが、そろそろ川越へ帰りましょう。

高麗川駅からだと、この出世橋を渡って高麗神社に来ることになります。

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駅の近くで、まるひろ(ファミリーまるひろ日高店)発見!

この看板に気づかないと、うっかりと駅への道を通り過ぎるところでした。

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無事に高麗川駅に到着!

川越と関係の深い高麗郡を通して、古代日本の歴史をより身近に感じました。

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川越と高麗郡の関わりは、今後も取り上げていく予定ですので乞うご期待下さい!

取材・記事 白井紀行


INFORMATION

高麗神社

【住所】日高市新堀833

【電話】042-989-1403(午前8:30~午後5:00)

【HP】http://www.komajinja.or.jp/

日高市新堀833