川越百景モニターツアー「喜多院界隈と四門前めぐり」(前編)
平成24年に「あなたが選ぶ みんなの景観」をテーマに選ばれた「川越百景」
その景観資源をより周知し、身近に感じてもらう一つの方策「川越百景ツーリズム事業」。
その一貫として、「川越百景モニターツアー」が行われました。
今回は第3回目「喜多院界隈と四門前めぐり」です。
川越の歴史を少し学ぶと必ず出て来るのが「十ヵ町四門前町」。
寛永16(1639)年に川越藩主となった松平伊豆守信綱が行った町割り。
現在の一番街を中心とする街並の基礎となった行政区画です。
このツアーでは古地図を手に喜多院界隈と四門前を始めとする百景を散策します。
‖ 喜多院とその界隈
当日は、先日供用が開始されたばかりの本川越駅西口に19名の参加者が集合。
元禄七年川越城下絵図を始めとする資料とレシーバーが配布されました。
地図は著作権があるので、代わりにネットサービスを利用します。
まずは、赤い線。本川越駅から喜多院までを歩きます。
喜多院を囲む水色の正方形が江戸時代の推定領域とされています。
これを頭に置きながら記事をご覧下さい。
本川越駅からイトーヨーカドーの脇を抜けて、クレアモール商店街へ。
途中の行程はちょっと端折って中院まで来ました。
左のクリーム色の塀が中院、右の塀が光西寺です。
‖ 中院
これからは春のしだれ桜、秋には紅葉など四季折々の光景が楽しめます。
案内板より
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7(830)年慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺の中に北(喜多)院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが寛永10(1633)年東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。喜多院に天海僧正が来住以前は、むしろ中院の方が勢力を持っていたことは、正安3(13011)年勅願所(ちょくがんじょ:天皇の命令で国家鎮護などを祈願した神社や寺院のこと)たるべき口宜(くぜん:口頭の命令の控え)の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母みきの墓などがある。
「先徳」は高徳の僧のこと。看板からも中院の勢力が高かったことが分かります。
境内にある「不染亭」は、島崎藤村が義母のみきに贈った茶室。
元々は新富町にあったのを移築したものです。
また、「狭山茶発祥之地」の碑もあり、かつて境内でお茶を栽培していました。
中院を出て喜多院へと向かいます。
県立川越高校を過ぎると「南院遺跡」。
この辺りから江戸時代の喜多院境内へ足を踏み入れます。
その先に「仙芳仙人塚」と「本地堂瑠璃薬師殿跡」の案内。
この奥には喜多院の前身、無量寿寺を造り上げたという仙芳仙人塚の石碑。
その隣地に徳川家康の法要を行った「本地堂瑠璃薬師殿」がありました。
なお、本地堂は現在の寛永寺(上野)の本堂として移築されてます。
注)モニターツアーでの説明は行われませんでしたが、補足しておきます。
‖ 喜多院
「川越百景No.13」の喜多院(小仙波町1-20-1)。
山門にある天海僧正の銅像。
ここで、天海僧正が明智光秀だったという面白い説を紹介されました。
山崎の合戦後、落ち武者狩りに会い死んだのではなく実は比叡山で僧になった。
これは、天海僧正の前歴が不明、春日の局が斎藤利三(光秀の重臣)の娘。
共に豊臣家を葬りたいという思惑があったこと。
徳川家康のブレインとして仕えたことなどを根拠としているものです。
参考)http://oniheru.fc2web.com/jinbutsu/tenkai.htm
もちろん諸説ありますが、歴史ミステリーとして楽しいですね。
喜多院の門前通
喜多院の境内に入る前に門前通(冒頭の地図では緑の線)を歩きます。
南院跡にあった「川越仙波鳥瞰縁起」が分かり易いのでこれを使って説明。
天保絵図に現代の道路等を投影したもので小仙波の松岡章次氏が作成。
「川越仙波鳥瞰縁起」では黄色の点線で記した県道。
山門から見るとこちらが門前通りと錯覚しそうですが…。
その県道を渡って、
ちょっと脇道らしきところに入る。
振り返ると山門が正面に、こちらが本来の門前通ということが分かります。
黒門があったであろうところで古地図と見比べる。
そんな古地図を使った街歩きのコツを学びつつ、喜多院の境内へ。
‖ 仙波東照宮
「川越百景No.14」の仙波東照宮(小仙波町1-21)。
徳川家康が祀られ、日光、久能山とともに三大東照宮といわれています。
仙波東照宮の説明の後、古地図を見るように言われました。
東照宮を取り囲む水色の堀に注目しながら歩いてみて下さいとのこと。
仙波東照宮の階段を下りて泥棒橋の方を見る。
橋を渡る時は堀と分かっても、こちら側だと堀とは気付かなかった。
これも古地図を見る面白さの1つです。
葵庭園(厳島神社)は水が湛えられ、地図に描かれた面影を残します。
境内の多宝塔が以前は県道の古墳の上にあったことを意識します。
‖ 喜多院の西界隈へ
ここからは、青い線を辿り江戸時代の喜多院の北から西の境内を歩きます。
喜多院の北側の門前通り。ここは新しい通りで江戸時代は無かったそうです。
その先にあるのが、「川越百景No.12」の成田山別院(久保町9ー2)。
彫刻の名匠「野本民之助」氏が残した作品や稲荷社について少し触れました。
成田山別院の手前までが喜多院の境内でした。
この喜多院西界隈「川越百景No.4」はかつては茶屋街。
往時の姿を残す、うなぎ「東屋」
ちょっと路地に入る(目の前は喜多院)
そうすると、元遊郭だった名残のある大正時代の建物が点在しています。
和洋御食事処「 栄」は、2Fの手すりには色窓硝子があしらわれた楼家。
天婦羅「てんぬま」は、むくりがついた入母屋造りが特徴な楼家。
今は営業していないそうですが、旅館「市むら」。
むくり屋根と呼ばれる丸みを帯びた屋根等、当時の面影が偲ばれます。
この他、ところどころ当時の様子を残す喜多院西界隈。
‖ 永島家と七曲がり
以前紹介した和カフェ「夢宇」の前に到着しました。
この辺りの住所は久保町といいます。
その由来は北側に土塁を築くため土を削ったので窪地になったからとか。
かつての武家地に向かう。緩やかな坂になっているのが分かりますか?
ブラタモリでタモリさんが口にする「高低差」が頭に浮かびます。
「七曲がり」は、川越城へ敵を侵入するのを防ぐ目的と言われています。
しかし、江戸時代には武家地の拡張で作った出入りの道が結果的に屈曲路になった。
そう考えられているものもあるそうです。
なお、永島家は毎月第三土曜日に公開されています。
お時間があれば、こちらの記事もどうぞ ↓
「 江戸後期の武家屋敷の姿を残す貴重な建物「永島家住宅」を見て来た」
という訳で前編は喜多院界隈を中心にご紹介しました。
取材・記事 白井紀行
INFORMATION
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川越百景詳細関連(市役所HP)
過去に行われた川越百景ツアー
このモニターツアーは、
11月21日(土)「新河岸舟運でたどる川越の歴史」
11月28日(土)「入間川ウォークと中世河越めぐり(前編)」 同(後編)
と2回行われ、カワゴエ・マス・メディアでも紹介させて頂きました。