120年前の姿に復元し未来へ受け継ぐ〜時の鐘耐震化工事〜
川越のシンボル「時の鐘」は、平成27・28年度の2箇年で耐震化工事を行っています。
12月28日から1月12日まで耐震工事の写真展を開催。
そして、1月9日の11時と14時の2回、係員の説明があると知り行ってきました。
記者が訪れたのは14時の回で、説明は1回だけだと思ったのか既に沢山の人が。
実際には10分程度の案内を15時までの間で複数回行うものでした。
1回目はほとんど聞けなかったので2回回ったのですが、この時は数名でした。
係員の誘導で工事中の「時の鐘」の下へ。
通路の壁には覗き窓があって工事の様子が覗けます。
主柱は下部が腐食していたそうで、今回根継ぎをするために切断されています。
耐震工事の写真はこの通路の壁に貼られていて展示内容は次の通り。
○時の鐘耐震化工事の工事現場写真
○「時の鐘」の歴史について(江戸時代の絵図、大正・昭和の写真)
‖ 時の鐘の耐震化工事の工事現場写真
平成27年、28年度に行う耐震工事の概要。
平成27年度は地下に「耐圧盤」を打設し、主柱を「礎石建ち」にする基礎工事。
平成28年度は外壁等を半解体して、下見板の張り替え等の建物の修理工事を行います。
揚屋(あげや)工事
「時の鐘」は、鉄骨で一層目の梁を固定して油圧で50cmジャッキアップされています。
ほぼ同じ位置で撮った「揚げ屋」前の「時の鐘」
民家の屋根で比べると全体が持ち上がっているのが分かります。
ちなみにジャッキアップされている「時の鐘」の重さは25トンあるそうです。
構造的に揺れ易くなっており、しかも民家スレスレなので工事は慎重に行われたそう。
礎石立ち
こちらも「揚げ屋」を行う前の「時の鐘」
主柱の下部が銅板で巻かれています。銅板を外すとコンクリート基礎が現れます。
それが、こちらの写真(右)。
さらに、このコンクリート基礎を解体すると昭和初期の基礎が現れました。
そして、そのコンクリート基礎を除くと礎石が現れました。
明治時代の建設当初は、この礎石の上に直接木の主柱が載せられた「礎石立ち」でした。
今回の耐震化工事は明治時代の建設当初を復元するので「礎石立ち」となります。
主柱の切断
主柱は下部が腐食していたので切断されています。
切断された主柱は「金輪継ぎ」という伝統的な手法で根継ぎで礎石の長さまで復元します。
金輪継ぎ(参考) http://www.t-e-r-a.co.jp/shaji_tu/takumi/kanawa.html
主柱は杉を使っており3本が川越の笠幡、1本が飯能の木材を使用しています。
根継ぎする木材も県産材を使用するそうです。
耐圧盤の設置
時の鐘の下には耐圧盤といわれる60トンの鉄筋コンクリートを設置します。
耐圧盤には主柱に固定されるアンカーが設けられています。
主柱を耐圧盤をアンカーで繋ぐことで、これが重しになって時の鐘の倒壊を防ぎます。
柱位置を決める「隅だし」は、1月14日から行われます。
文化財としての調査
時の鐘の敷地を掘り起こして行くと玉石や石組みなどが現れました。
このような出土物から時の鐘がどのように建てられたかや以前の姿が推測できます。
写真の玉石や間知石(けんちいし)も本来は礎石の下にあるもの。
つまり、今の礎石用では無い訳です。こういったことで過去の姿が推定できるのです。
‖「時の鐘」の歴史について
通路の壁を折り返すと、今度は「時の鐘」歴史を知る絵図や写真が展示されています。
江戸時代(中〜後期)
「時の鐘」は、寛永4〜11(1627〜34)年頃、川越藩主酒井忠勝が創建したされています。
寛政4(1792)年の絵図には「鐘堂」と記されています。
つまり、この時代はまだ今のような塔では無かったと考えられます。
享和元(1801)年の絵図には「多賀町時鳴堂」として塔として描かれています。
明治時代
現在の「時の鐘」は、明治27(1894)年(川越大火の翌年)に建てられました。
細部を見ると礎石建ちである、小窓が無い、横棒がないといった点に違いがあります。
右上は次の写真である大正元(1912)年の時の鐘を拡大したもの。
大正元年は、建設当時の姿を保っていたと云えます。
この写真は、仮囲いでも拡大してプリントされています。
横棒というのは、この鐘撞棒の上側にあるものを指し「鴨居」ではないかと云われています。
こちらが小窓。耐震工事後は明治27年当時に復元されるので、これが無くなります。
また、外壁の下見板も取り替えられるので相当に印象が変わるのではと係員。
昭和初期
昭和16(1941)年の写真では、ガラス窓や今とは位置の違う小窓の様子が分かります。
昭和27(1952)年にはガラス窓がなくなり横棒(鴨居)だけが残っています。
昭和後期
時の鐘は、約50年前の昭和35(1960)年に大改修が行われています。
こちらは昭和52(1977)年の写真ですが、この時代になると今とほとんど変わりません。
通りの店が今は牛乳屋さんが当時はおもちゃさんだったというのが分かります。
平成28年の大改修が行われれば、次の改修は50年後。
そして、奇しくも昭和35年と今年は東京オリンピックを4年後に控えています。
なんとも不思議な巡り合わせですね。
‖ 鐘撞堂下 田中屋
ところで、「時の鐘」の並びに川越団子の「田中屋」があります。
こちらの建物もお店の方に伺うと明治27年に建てられたそう。
「時の鐘」とともに川越の歴史を歩んで来たんですね。
炭火でパタパタと焼く川越団子は一本60円!
醤油のみの素朴な味、創業は文久元(1861)年で155年の重みを味わえます。
また、時の鐘の工事を請負う川木建設も明治2(1872)年創業。
ほぼ同じ歴史を歩んだできたのは偶然でしょうか?
丁度、時間は3時、鐘の音が川越の町に響きました。
工事予定によると3月〜10月は建物修復工事のため、定刻の鐘打もそれまで中断。
全体を素屋根で囲み周囲をシートで覆うため、時の鐘全体も見えなくなります
係員の話しでは、「川越まつり」にはシートが外せるように間に合わせればとのこと。
当時の姿がどのように復元されたのかは、また、追ってレポートします。
取材・記事 白井紀行
INFORMATION
時の鐘耐震化工事
【住所】川越市幸町15-7
【電話】049-224-6097(直通)/教育委員会 教育総務部 文化財保護課 管理担当
【HP】時の鐘耐震化工事について (川越市)