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石や土が無言で伝える古代人の知恵〜山王塚古墳現地見学会〜

取材・記事 白井紀行   関越自動車道 川越I.C近く。閑静な住宅街に突如として出現する大きな森。   ここは、上円下方墳という四角台に丸い塚を乗せた形状の古墳「山王塚古墳」。 16〜17万基を数える古墳の中で、現在6基しか見つかっていない珍しい形状。 入間川の右岸に面する武蔵野台地の端部に位置する南塚古墳群の一つです。   手入れされた雑木林の中央部に見える墳丘が円墳部。   「山王社」と呼ばれる小さな神社があり、南方向に参道が設けられています。   頭頂部に小さな祠。その両脇には神の使いである猿が狛犬の代わりに鎮座。 山王社は山王信仰に基づき日吉神社から勧請を受けた神社です。   川越市では山王塚古墳の調査を、平成24(2012)年度から実施。 その結果は、市立博物館での調査会や現地見学会で報告されて来ました。   平成31(2019)年には博物館で企画展、やまぶき会館でシンポジウムを開催。   そして、9月28日(土)に「山王塚古墳現地見学会」が行われました。   見学会は10時からと14時からの2回で、約1時間。 記者は1回目の見学会に参加しました。   川越市の職員さんによる挨拶の後、山王塚古墳についての説明がされました。 一部補足を入れて、説明をかいつまむと.. 上円下方墳という形状について …

川越古代歴史ロマン探訪〜山王塚古墳 発掘調査第3次見学会〜

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取材・記事 白井紀行   朝から激しい雨の降った8月27日、山王塚古墳第3次発掘調査の見学会が行われました。 山王塚古墳とは? 山王塚古墳については、3月12日に行われた第二次調査会で詳細を記述しています。 http://koedo.info/160520sanodukakofun/ かいつまむと、川越には4つの古墳群があり、山王塚古墳は南大塚古墳群に属す。 7世紀後半に造られたとされ考えられ、日本最大の上円下方墳とされています。 未だ埋葬者は不明ですが、川越市では平成24年から発掘調査を行っています。   当日配られた資料に想像図(イメージ)を重ね合わせてみました。 注)簡易的にトレースしたものなので正確ではありません。   こちらは資料の表拍子の図にトレンチを重ね合わせたもの。 これを頭に入れながら古墳を巡ってみたいと思います。   ‖見栄坊だった山王塚古墳 当日は生憎の雨で、低いところには水たまりができていました。 しかし、これが怪我の功名。この低くなった処が周溝だったことが分かります。   その周溝を調べるために設けられた9-A号トレンチ。   このなだらかに掘られたのが周溝。   幅は15メートルあるのですが、深さは50cmと浅い。 遠くから見ると(溝の幅があるので)古墳を立派に見せることができる。 これが、山王塚古墳が見栄坊と云われる由縁です。   その先に有るのが9-B号トレンチ。   下方部の構築の様子が分かります。 一番深いところは3m程ありますが、赤土が出ていないので、まだ基底に達してないとか。   写真では少し分かり難いですが、方形部の縁も少し盛り上げてあります。 そうすると、下から見上げた時により高く見えるのも見栄坊です。   円形部の高さは約4mあるそうです。   第3次調査では、これまで、あまり手を入れてない下方部の北側の周溝も調査。 その結果、こちら側も溝の幅は15m位はあったのではと考えられるそうです。 注)この先の溝は江戸時代に掘られたと推測されています。 雑木林としても価値がある山王塚古墳 ここで、古墳に生えている樹木について話しがありました。   山王塚古墳にはたくさんの木々が植わっており、雑木林としても価値があります。 それを活かすために1週間かけて植生を調査したそうです。   古墳をぐるりと時計方向に回ります。   10号トレンチ。この先の道路は「く」の字に折れています。   これまでは、周溝がこのようなカーブを描いていたと考えれれていました。 しかし、調査の結果、実際には道路の下まで周溝があることがわかりました。   山王社の参道の脇に設けられた13号トレンチ。   この立ち上がりから参道の部分が石室へと続く、陸橋だったことが分かりました。   その陸橋を渡って石室へと向かいます。   12号トレンチが石室の前庭部(祭礼などを行ったところ)になります。   床面部分には握りこぶし大の河原石を敷いた床面が見られます。   上から見た様子   こちらでは、石室の閉塞に使われた人頭大の河原石が崩れた状態で見られます。 石室は緑泥片岩と見られ、それが少し顔を出しています。 埋葬者を推測してみる 当日の説明会にはありませんでしたが、前庭について興味深い論文がありました。 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005748163 これによると、横穴式石室の前庭は高句麗の王陵に採用されたものなのだそうです。 上円下方墳は有力な支配層の墓であり、前庭は高句麗の王陵に見られるもの。 そして、高句麗の人が住んでいた高麗郡には川越も含まれていた。 これらから相当に位の高い人が埋葬されているのは間違い無さそうです。 この山王社の下に眠る埋葬者。 今後、調査が進み川越から歴史の一ページを塗り替える日が来るのかもしれません。 INFORMATION 山王塚(南大塚古墳群) 【電話】049-224-6097(直通)教育委員会教育総務部文化財保護課調査担当 【住所】川越市大塚1-21-12 【HP】川越市 山王塚古墳 第3次調査     当日の資料はこちらからダウンロードできます。▼
山王塚古墳全体

川越古代史ロマン探訪

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街中に突然現れる密集した木々 普段見慣れた街並みに突然木々が密集して生い茂った、何か特別な雰囲気を持った場所が目に入ってきたことって無いですか? 自宅から南大塚方面に向かって歩いていたら、まさしくそんな風景が僕の視野に入ってきました。 沸き立つ好奇心に導かれ近くに寄ってみると、そこは市指定史跡「山王塚」と呼ばれる古墳でした。 この一帯を「南大塚古墳群」と言うのも初めて知りました。   説明書きから古代を馳せる 古墳の形には意味がちゃんとあって、その時代背景や古代国家の勢力なんかもわかるそうです。 川越市による発掘調査では、牛塚も山王塚も作られた時代は7世紀くらいだそう。 双方の古墳群の主古墳の形状が異なることから、入間川を挟んで対峙して存在していた別勢力による村国家の存在が想定されます。 前方後円墳は大和朝廷のシンボリックな存在なので、牛塚の主は大和朝廷勢力下のローカルな王様だったのでしょうか?! 対して山王塚は全国的に珍しい上円下方墳というタイプのもので、ちょっと埋葬者を考察するのはハードル高く、かつ興味深いです。 なんたって川越含めて現在全国(奈良県奈良市、静岡沼津市、東京府中市&三鷹市、福島県白河市)でわずか6か所しか確認されてないそう。 また川越の山王塚が同種の古墳では最大規模という事も何だか気になります。 きっと位の高い王様が今の南大塚辺り周辺を治めていたのでしょうか?!   まさに歴史ロマン!!   ちなみにこの珍しい上円下方墳、近代に入って明治、昭和天皇陵に採用されているのがこれまた興味深いです。     山王塚に足を踏み入れてみる で、周りをくるりと散策してみました。 この角度だと盛り土の様子がわかりますね。     鳥居は比較的新しいので、周辺住民の方々からはきっと神聖な場所と長年思われているのでしょう。     頂上には祠があって、中を覗いてみたら江戸期のものでした。     頂上の祠の脇には「榛」?の文字が刻まれた石塔が幾つかありました。古墳の時代よりは後の物でしょう。     古代の物流を想う 埋葬品などからも山王塚の手がかりがわかると思ってさらに調べました。 平成15年に行われた川越市の発掘調査時に円筒埴輪が出土しています。 これは、鴻巣市生出塚(おいねづか)埴輪窯跡で焼かれたもので、川越市周辺で見つかるほとんどの埴輪が生出塚産です。   参考)川越市ホームページ 「南大塚古墳群発掘調査現地説明会当日配布資料(概略版)」   生出塚の埴輪は行田市にある大規模古墳群「さきたま古墳」を始め県内の多くの古墳からも見つかってます。 ここから、古代物流の姿が浮かび上がってきます。なんか今とあまり変わらない人の営みだったりして?!   蔵の街や繁華街も良いですけど、普段僕らが目にする街の姿って、実は表面的なほんの一部に過ぎません。 視点を変えて街を眺めてみるとまた違った姿が見えてきそうで楽しいですね! WRITER…