歴史ロマン探訪〜河越城を巡る闘いと難波田(なんばた)氏〜

 

久々の歴史ロマン探訪、今回は城下町川越のシンボルである「川越城」にまつわる歴史を、少し視点を変えて探訪したいと思います。

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川越城本丸御殿

ご存じの方も多いと思いますが、中世(鎌倉・室町時代)の川越は大きな戦乱にたびたび見舞われ市街地含め戦場となる事がありました。今の平和で賑やかな川越の街からはとても想像できませんね。中世、特に戦国時代は武蔵国(今の埼玉県と東京都の一部)支配の要所である河越城の争奪をめぐって新旧勢力が激しくぶつかり合っていた時代でした。

当時新興勢力であった後北条氏と、それまで関東を中心に広く統治していた上杉氏の諸家である扇谷上杉家との河越城を巡る争いは延べ5回も繰り返したと歴史書には記載されています。ちなみに現存する川越城本丸御殿は江戸末期の建造物なので、それよりずっと後世の建造物です。

河越城を巡る数ある闘いのうち、特にその後の関東支配の政局に決定的な影響を及ぼした5回目の戦いは日本三大夜戦の内の一つ「河越夜戦」として有名です。

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東明寺、川越夜戦跡の碑

圧倒的に戦力が上回る扇谷上杉氏に対して、少ない手勢の後北条氏の“奇襲攻撃”による勝利は、数多の時代小説や大河ドラマなどでも良く描かれていますね。

 

 

まずは下調べ

さて、前置きが長くなってしまいましたが、資料を読み返していくうちに、ここで素朴な疑問とも言えない好奇心が記者に芽生えました。

勝者である後北条氏とその後の歴史は、小が大を倒したという痛快さも手伝ってか先に書いたようにあちこちで目に触れます。一方、戦に破れた上杉方、特に河越城と対峙する事になった近隣の城とその城主はどういう一族が居て、その後どうなったのか?

そんな川越市民や訪れる人々に意外に知られていないもうひとつの歴史ドラマに興味を抱きながら今回の歴史探訪を初めてみました。

そこでさっそく現存する資料や地図などを手に取り、当時の河越周辺の城の分布状況を見てみると、やはり想像通り数多くの城が関東一円に点在しています。関東の覇権を目指してそれぞれの勢力が範囲拡大にしのぎを削っていた時代だったのでしょう。

まさに日本史上最も多く城が存在していた時代だったようです。

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中世関東における城の分布図

上の城の分布図から、河越城に一番近い難波田城に興味を持ちました。どうやらこの難波田城、上杉方として河越夜戦にも参加した難波田氏の拠点のようです。富士見市に城跡がありますが、何年も近隣の川越に住んでいるにも関わらず恥ずかしながらその存在すら知りませんでした。今回のテーマに合いそうなので、さっそく富士見市にある難波田城跡に足を運んでみる事にしました。

調べてみると城跡への行き方は色々あるようです。当時の城は山や丘、河川に面した段丘上などに築かれ、敵が攻めにくく、味方が守りやすいように作られています。難波田城のある富士見市の地勢は、西半分は武蔵野台地、東半分は荒川低地となっており、荒川と新河岸川の流域より一段高い自然堤防が形成され、難波田城はこの自然堤防の最も発達している場所にあります。どうやら築城には荒川低地においてもっとも適した位置にあったようです。

そこでこれら自然環境、地形などを巧みに利用している当時の痕跡を探し、それを理解するためにも川越から今ある手がかりとして新河岸川(物資の運搬など当時も舟運の利用はあったはず)に沿って向かってみました。

 

 

‖ いざ難波田城へ

新河岸川の土手を川越から川下に向かって進み住宅街を抜けると、一面に田畑が広がっている景色が目に入ります。この時代の産業と言えば農業なので、きっと豊富な水を利用し、時には水害と闘いながら当時の人々は田畑の開発に心血を注いでいたのでしょう。

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新河岸川南畑(難波田※1)橋付近

 

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低地で近くに流れる川(荒川、新河岸川など)の氾濫も多く、田の運営は難しく江戸時代の安永元(1772)年に、水害に悩まされた村民が幕府に願いでて、文字の縁起が悪いとして地名の「難波田」を今の地名の「南畑」へ文字を改めたそうです。

 

城跡に到着するとそこは公園として整備されており、城門もしっかり復元された立派な城址公園で、地元の方の憩いの場でした。また敷地内には難波田城や郷土に関する歴史資料などを展示する資料館や、時代はずっと後になりますがこの地の豪農の家屋が歴史建造物として一般公開されており、この地の人々のかつての生活の一端を垣間見る事ができます。

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古民家

 

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資料館内

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旧大澤家住宅

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旧大澤家住宅(内部)

 

 

‖ 難波田城と難波田氏

さて、この難波田城は中世の富士見市を本拠として活躍した難波田氏の居城です。場所は南畑地区、標高6mの沖積地である荒川低地にあり、荒川と新河岸川に挟まれた一角に築かれた平城です。

地名の「難波田」からもわかるように、川で守られていた城ではありましたがその反面水害も多く領内の田畑の運営など難しい土地柄だったようです。城の規模は推定50,000平方メートル(東京ドームとほぼ同じ)、自然の堤防と三重の水堀に守られている城でした。

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追手門

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水堀と東西の廓をつなぐ木橋

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冠木門

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難波田城資料館

難波田城の主である難波田氏の勃興は古く、平安時代末期に成立した武士団「武蔵七党」のひとつである村山党金子氏の金子家範の子、高範が承久3(1221)年の承久の乱に参戦し、その恩賞として与えられたのが富士見市南畑です。そして地名の「難波田」を名乗るようになりこの地の領主としてその後の時代を治めていきます。

時は流れ室町時代中期、応仁の乱(1467年)に始まる100年に渡る長い戦乱を迎え、関東地方でも鎌倉公方と関東管領上杉氏との対立が激化し、関東を二分した争いが始まります。そして同族である山内上杉家と扇谷上杉家の間でも内紛を繰り返すようになり、その後の新興勢力である後北条氏の台頭を結果的に許してしまう事になります。そんな激動の時代の中、難波田城の城主である難波田憲重は扇谷上杉家の重臣として古文献にもその名前が多く見られるようになり、上杉家の有力な支城であった松山城(比企郡吉見町)の城代を担うほどの武将だったようです。

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難波田城復元模型

大永4(1524)年1月、江戸城を北条氏綱に攻略された扇谷上杉朝興は、巻き返しを図るため、居城の河越城から頻繁に南武蔵に向けて出撃しています。扇谷上杉家臣の中でも武功の勇士と名高い難波田憲重ではありましたが、享禄3(1530)年と天文2(1533)年に、主家の扇谷上杉朝興の命に従い北条氏に奪われた江戸城奪還を試みますがいずれも失敗しています。

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天文3(1534)年「金塗六十二間筋兜」

天文6(1537)年4月に扇谷上杉朝興が没すると、家督は朝興の子の朝定が継ぎます。扇谷上杉朝定は難波田憲重に命じ、深大寺城(東京都調布市)の増改築を行わせ後北条氏との闘いに備えさせます。しかし、同年7月、後北条氏綱は対北条戦の備えをしていた深大寺城は迂回し、直接河越城を攻め扇谷上杉朝定を松山城に敗走させます。(深大寺城については後述)

居城であった河越城も奪われ、後北条氏との戦線の北上も許してしまった扇谷上杉朝定は、天文14(1545)年に関東管領山内上杉憲政や古河公方足利利晴と組んで北条勢3千が立て籠もる河越城を8万の軍勢(諸説あり)で包囲し、上杉氏による河越城奪還も時間の問題となるまで北条勢を追い込みました。その頃、北条勢主力の北条氏康は今川氏と戦闘を行っていましたが、河越城の氏綱の危機を聴くや今川との戦を一旦納め、本国から約8千の兵(諸説あり)を率いて救援に河越へ向かいました。

天文15年4月20日の夜、かの有名な後北条氏康の奇襲攻撃により、上杉方は総崩れとなり扇谷上杉朝定は討死し、重臣だった難波田憲重とその息子達も東明寺付近で討死、憲重は東明寺の古井戸へ転落し落命したとも言われています。

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東明寺

 

 

‖ 河越夜戦後の難波田氏

難波田氏は主家扇谷上杉氏の敗北により、先祖代々の地である難波田を追われる事になります。その後、難波田氏の生き残った一族は後北条氏の家臣となり、川越市の池辺や志木市の宗岡あたりを領地として与えられました。

そして時代はさらに移り天正18(1590)年、豊臣秀吉による関東侵攻の際に、前田利家による松山城攻めの際、難波田氏の家督を継いだ難波田憲次は後北条方で抵抗戦に参加したようですが、松山城落城、その後の小田原城陥落と後北条氏の滅亡を先の扇谷上杉氏に続き経験してしまいました。

しかしそれでも難波田憲次はしぶとく生き延び山城国(京都府)にたどり着きその生涯を終えています。そして憲次の嫡子難波田憲利はその後徳川幕府に召し抱えられ、旗本となってこの激しい乱世を生き抜いていました。

 

 ‖ まとめ

室町時代にあたる長禄3(1457)年扇谷上杉持朝の家宰である太田道真、太田道灌父子によって築城された河越城は、およそ90年後の天文15(1546)年に扇谷上杉氏は滅亡し、その後に北条氏を新たな河越城の主として迎えます。そしてその後の豊臣氏の安土桃山時代、徳川氏による江戸時代と激しく移り変わる時の中で生き抜いた富士見市在郷の武将難波田氏の足跡をほんのわずかですが訪ねる事ができました。

 

 ‖ おまけ〜深大寺城と難波田氏について〜

深大寺城の築城年は不明。扇谷上杉氏の南関東の防衛ラインとして後北条勢を多摩川で食い止め、かつ江戸城奪還を図るため、天文6(1537)年4月、13歳で父・朝興の跡を継いだ上杉朝定は難波田氏に命じて深大寺城を増改築させています。そして難波田氏は深大寺城主も一時期務めていたようです。

城跡は東京都調布市神代植物公園の附属施設である「水生植物園」内にあり、かろうじて曲輪、土塁、空堀跡などが当時の面影を残しています。

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二重土塁と空堀跡

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深大寺門

深大寺城周辺は深大寺を中心に観光地となっており、多くの参拝客で賑わっています。そして深大寺って言えば蕎麦ですよね♪ 歩きまわって空腹になったので田舎太麺蕎麦を注文してみました。

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深大寺参道と玉乃屋太切り田舎そば

 

取材・文 寺崎英幸

 


INFORMATION

難波田城址公園(資料館)

【住所】富士見市大字下南畑568-1

【電話】049-253-4664

【利用】難波田城資料館・古民家
     <開 館> 9:00〜17:00
     <休館日> 月(祝日除く)祝日の翌日(土日祝除く)、年末年始
     <入館料> 無料

    難波田城公園
     <開 園> 9:00〜18:00(4月1日〜9月30日)
           9:00〜17:00(10月1日〜3月31日)
     <休園日>なし
     <入園料> 無料

【HP】難波田城公園(資料館)からのお知らせ

富士見市大字下南畑568-1