石や土が無言で伝える古代人の知恵〜山王塚古墳現地見学会〜

取材・記事 白井紀行

 

関越自動車道 川越I.C近く。閑静な住宅街に突如として出現する大きな森。

 

ここは、上円下方墳という四角台に丸い塚を乗せた形状の古墳「山王塚古墳」。

16〜17万基を数える古墳の中で、現在6基しか見つかっていない珍しい形状。

入間川の右岸に面する武蔵野台地の端部に位置する南塚古墳群の一つです。

 

手入れされた雑木林の中央部に見える墳丘が円墳部。

 

「山王社」と呼ばれる小さな神社があり、南方向に参道が設けられています。

 

頭頂部に小さな祠。その両脇には神の使いである猿が狛犬の代わりに鎮座。

山王社は山王信仰に基づき日吉神社から勧請を受けた神社です。

 

川越市では山王塚古墳の調査を、平成24(2012)年度から実施。

その結果は、市立博物館での調査会や現地見学会で報告されて来ました。

2018年6月16日に開催された「遺跡発掘調査会」発表資料より

 

平成31(2019)年には博物館で企画展、やまぶき会館でシンポジウムを開催。

 

そして、9月28日(土)に「山王塚古墳現地見学会」が行われました。

 

見学会は10時からと14時からの2回で、約1時間。

記者は1回目の見学会に参加しました。

 

川越市の職員さんによる挨拶の後、山王塚古墳についての説明がされました。

一部補足を入れて、説明をかいつまむと..

上円下方墳という形状について

  • 山王塚古墳は関東最大の上円下方墳として昭和33年に市指定文化財となった。
  • 現在6基しか発見されてない稀な形状。▶︎https://ja.wikipedia.org/wiki/上円下方墳
  • 明治、大正、昭和天皇の天皇陵は、天智天皇の古墳に倣いこの形状※を取っている。
    ※但し、調査で実際には円墳ではなく、八角形だったと判明している。

 

版築された時期の時代背景

  • 古墳時代は3世紀からで「山王塚古墳」は、その後期(7世紀後半から8世紀)に版築。
  • 日本は豪族による連合集権から天皇を中心とした律令国家に向かう激動な時代。
    →主な出来事には、645年 大化の改新、663年 白村江の戦い、667年 壬申の乱、701年 大宝律令制定

2018年6月16日に開催された「遺跡発掘調査会」資料より

 

その後、職員さんが3箇所に分かれての説明会へと移ります。

 

参道の下には石室が埋まっている

山王社の参道に沿って張られた白いスズランテープ。

左右から突き出した仕切りで3つに区分けされていることがわかります。

 

一番手前の仕切りから下はスズランテープが八の字に広がります。

 

この下に埋まっているのは石室と呼ばれる埋葬施設。

山王社の真下が玄室、その手前に前室、羨道、八の字が前庭部となります。

 

現在の位置に羨道を発掘したときの写真が重ねられました(実際より拡大)

この辺りだと石が並べられた床面は2メートルくらい下になります。

山王社の祠の下にある玄室になるとさらに深くて床面は3メートル下。

発掘調査は出来ていませんが、レーダー探査で強い反応が出たのだそう。

 

上の写真で緑色の大きな石は奥の前室を仕切として立てていた門柱石が倒れたもの。

県内では小川町や長瀞で産出される「緑泥片岩」という石材です。

板状に割れる性質があり、中世には板碑としても多用されていました。

墳丘に破片がたくさん出ており、ここで門柱石を加工したと推測されています。

 

職員さんが手にするのは6世紀の榛名山大噴火で旧利根川へ流入した「角閃石安山岩」。

白っぽいゴツゴツした表面に角閃石の黒い結晶がたくさん見えるのが特徴。

本庄市〜深谷市辺りの河原で採取され、ここまで舟で運んできました。

 

「角閃石安山岩」は、見た目よりも軽くて柔らかく加工しやすい石材。

上の写真のように扁平な自然石の上下を削って平坦に、側面の一端を抉るように加工。

右下の図のように組み合わせ、羨道の側壁として積み上げたことが解っています。

 

床面に敷いてあったのは川原石で、旧多摩川のもの。

山王塚古墳は武蔵野台地の端にあり、そこに顔を出していた石を取ってきたと思われる。

 

石室の石は盗掘された際に崩れたり、中世になって庭石用にと抜かれてしまったそう。

それでも、当時の人たちが各地から運んできたことが判明しました。

地味に思われる石から歴史を紐解くというのにロマンを感じさせますね。

 

武蔵府中熊野神社古墳へ行ってきました

上円下方墳は6基ありますが、そのうちのひとつが府中市にあります。

たまたま、所用で最寄駅の「西府」に来る機会があったので寄り道してきました。

平成11年に国の史跡に指定。表面を葺石で覆った1350年前の姿が復元されています。

左手の建物は熊野神社

 

山王塚古墳と同じく横穴式石室ですが、現在は保存のため埋め戻されています。

古墳南側にある展示館には実物大で復元された石室があります。

 

案内パネルを拡大。3つに分かれた石室の様子が描かれていました。

 

同じく案内パネルの写真を拡大。

羨道の壁が石を積み重ねて作られているのがわかります。

 

玄室内部は「胴張り型石室」とよばれ丸みを帯びた形となっています。

壁面を構成するのは多摩川から切り出した「シルト石(砂質の堆積層)」。

四隅を四角形に欠きとって隣の石と組み合わせる丁寧な作りとなっています。

職員の方に伺うと、山王塚古墳では当面、発掘調査の予定はないそう。

なので、同時期に作られた類似の古墳が内部を推察する参考となります。

 

古墳を囲む周溝

墳丘を降りたところが次の説明ポイント。古墳の周りを囲む周溝に注目。

 

山王塚古墳は上円部が直径37メートル、下方部が69メートル四方。

周溝部の幅が10〜15メートル。周溝外縁まで含めると90メートルに及びます。

初雁球場の両翼までが91メートルなので、その大きさが想像できるでしょう。

 

先に見える道路の高さは当時の地面と変わっていないと考えられています。

溝を掘らずに残した部分が「土橋」となり、前庭へと向かいます。今の参道です。

 

土橋の左右にある周溝。一番広いところは18メートルあります。

古墳を大きく見せるため正面は意識的に広げてあるのだとか。

上円部の墳丘の周囲には地面を掘り下げた穴が見つかっています。

墳丘の表面は関東ローム層の黒色土を固めたものですが、芯の部分は良質の赤土。

穴は赤土を採掘するため掘られたものと考えられるそうです。

 

下方部縁辺を廻る土手上盛り土

次のポイントは、赤丸で囲った古墳の西北部。

 

見学者が歩いてるところが方墳部になります。

 

職員が待つ古墳北西部、少し小高くなっているのにお気づきでしょうか?

 

方墳部の外周が土手状60cmほどに盛り上がっているのも山王塚古墳の特徴。

 

これは版築方法にも関係しています。

山王塚古墳は、最初に円墳部が築かれ、それを囲むように方墳部が作られました。

その際に土を黄色い線まで平らにせず周辺部だけを土手状に盛り上げるようにする。

すると遠くから見たときに、土手の高さまで土があるように見えるわけです。

少ない労力で方墳部を大きくして立派に見せるという当時の知恵が忍ばれます。

 

以上で、見学会はおしまい。

そのまま古墳を時計回りに散策し、その大きさや周溝の様子を観察。

周りは住宅街。よく、1,300年以上も残ったものだと改めて感心させられます。

現在、山王塚古墳は国の史跡を目指して手続きを進めているそうです。

そうすると当時の姿に復元することも考えられますが、この古墳は土を盛ったもの。

武蔵府中熊野神社古墳のような葺石や埴輪もなく見栄えしません。

貴重な雑木林でもあるので、おそらくARやVRを使う形が取られるのでしょう。

最新のテクノロジーを駆使して復元された遥か昔の姿。ぜひ、みたいものです。

イメージ▶︎ 墳タビ!物集女車塚古墳(京都)

 


INFORMATION

山王塚古墳(南大塚古墳群)

【住所】川越市大塚1-21-12

【電話】049-224-6097(直通)教育委員会 教育総務部 文化財保護課(調査担当)

川越市大塚1-21-12

 

INFORMATION

武蔵府中熊野神社古墳

【住所】東京都府中市西府町2-9-5

【電話】042-368-0320(武蔵府中熊野神社古墳保存会)

【HP】http://www.fuchukumanojinjakofunhozonkai.net/

府中市西府町2-9-5