江戸三座の栄光と川越の文化と経済力の象徴だった姿は人々の記憶の中へ〜鶴川座〜

取材・記事 白井紀行

 

蓮馨寺の参道、立門前通りにあった「鶴川座」

明治26(1893)年に川越大火で消失した「松蓮座」を明治31(1898)年に再建。

土蔵造りの和風芝居小屋、洋風劇場、映画館として利用され約20年前に閉館。

時折、ライブハウスや展示会場として使われてきました。

近年は内部の損傷のため使えなくなり建物前のスペースでイベントが開かれる程度。

NPO法人川越蔵の会や商店街らで存続の道を模索してきました。

 

鶴川座お掃除会(2013年9月22日)


平成12(2000)年に映画館としての役割を終え閉館した「鶴川座」。

芝居小屋として蘇らせるには時間がかかるが、このままでは朽ちてしまう。

 

何とかイベントスペースとして活用できるようにと行われたお掃除会。

 

約30名の市民らでゴミを片付け、屋根に積もった腐葉土などを取り除きました。

 

「映画 中村勘三郎」上映会(2013年11月31日、12月1日)


お披露目と活用イベントの一つとして行われた「映画 中村勘三郎」の上映会。

18代目中村勘三郎の活動を20年に渡って密着した作品です。

いつか、「鶴川座」で歌舞伎ができたら、そんな思いも込められていました。

 

川越の歴史的な街を作っていく上で「鶴川座」は一つの重要なポイント。

そう位置付けられていたのが外され、芝居小屋としての活用も難しい方向になる。

楽屋側の屋根が落ちてくるなど危険な状態になり保存は断念されました。

 

取り壊し後は、外国人向けの宿泊施設が建設される予定です。

 

取り壊し前の最後の説明会(2019年6月30日)


「鶴川座」は、東京圏内では唯一残るとされる木造建築の芝居小屋。

川越蔵の会では、今年に入り半年間、貴重な部分を保存する活動を行ってきました。

 

その中心となったのが「木造劇場研究会」賀古唯義(かこただよし)さん。

本業は文化財を修復する技術者です。

熊本県「八千代座」と「旧金毘羅大芝居」の修復に携わってきました。

「鶴川座」は、このまま無くしてしまうにはあまりにも惜しい建物。

せめて、この建物の大事なポイントぐらいは記録を残して世間に公表したい。

ということで、取り壊しが始まる前の最後の説明会が6月30日に行われました。

この日も寸暇を惜しんで朝から調査。作業着のままでの講演です。

 

「鶴川座」は江戸三座と呼ばれた直系の子孫


江戸時代、幕府に営業を認められた中村座、市村座、森田座は江戸三座と呼ばれました。

歌舞伎は風紀を乱すということで遊郭と同じ扱いで認可制だったのです。

明治時代になるとこれらの芝居小屋は洋風シアターとして建て替えられていく。

さらに、戦後の高度成長でビルディングに変わる時に基礎から深く掘られてしまう。

もはや地下の遺跡すら残っていない江戸の建築技法を継承していたのが「鶴川座」。

説明会は「鶴川座」が江戸の芝居小屋との類似性を紐解く形で行われました。

※この記事は説明会の内容を再構成したもので文責は記者にあります。
 当日の説明会では、現存する他の芝居小屋の事例やより専門的な解説が行われました。

 こちらの記事も合わせて読むとより理解が深まると思います。

  ▶︎ https://performingarts.jp/J/art_interview/1005/1.html

 

鶴川座クロニクル(建物を変遷を辿る)


第一次期(明治時代)は和風土蔵造りの芝居小屋

鶴川座は明治初期に蓮馨寺の境内にあった松蓮座が前進。

明治26(1893)年の川越大火で消失し、明治31(1898)年に再建されたもの。

大火でも焼け残ったのが土蔵造り。これがきっかけに川越は蔵の街となります。

鶴川座もそれに倣(なら)い、川越に相応しい土蔵造りになっていました。

本格的な歌舞伎ができる芝居小屋で廻り舞台や花道が設けられていました。

第二次期(大正時代)は洋風建築の外観へ

大正時代になると庶民の興味が西洋式の演劇や活動写真、浪花節へと移りました。

それに合わせて鶴川座も洋風建築に改築され、廻り舞台と花道は撤去されました。

わかりにくいですが、屋根を丸くし、左右にはタワーが見えます。

 

 

第三次期(昭和初期)は映画専門館

戦後、映画の絶頂期となると鶴川座は映画館「川越日活劇場」に衣替え。

当時の映画のフィルムは燃えやすいので2Fに増築された映写室はコンクリート造り。

内側はモルタル塗りの防火の部屋となっていました。

 

しかし、昭和40(1965)年代にはテレビの普及とともに映画も下火に。

川越プラザと名を変え、平成10(1998)年頃は成人映画を上映していました。

現役の人に取って「鶴川座」は残念ながらこの成人映画館の印象が強い。

それが中々、保存運動に繋がらなかった要因の一つにもなっていたのです。

第四次期(2000年代)はライブハウスやイベントスペースに

その後、雑貨屋、ライブハウスなどに使われましたが2006年に閉館。

時折、イベントも開催されるも老朽化や消防法などの問題で閉鎖されていました。

 

いよいよ、ここから本題。

鶴川座の持つ特徴から、江戸の芝居小屋の直系の子孫だった事実が解き明かされます。

 

その1 江戸の芝居小屋の花道は下手に曲がっていた


花道は歌舞伎舞台の特殊な機構の一つで舞台下手から客席の方に伸びている通路。

地下通路も掘ってあり、役者の出入りや舞台演出上にも重要な役割を果たします。

江戸の芝居小屋の花道は下手の廊下に出て楽屋に戻るため下手で曲がっていました。

 

鶴川座は大正時代の第二次期の改築で花道は取り外され土間コンとなっていました。

10年前に少し掘ると地下通路が現れたため、右に曲がっていたと考えられていました。

 

今回の調査で発掘して出てきたのが、このレンガ造り※の地下通路。

右に曲がってから、壁の下を真っ直ぐに潜り、左に曲がって上がる階段を発見!

※地下通路がレンガの擁壁というのも加古さんの知る限り鶴川座だけだそう。

 

つまり、下図のような構造だったということが判明しました。

鶴川座は「花道が下手で曲がる」という江戸の芝居小屋の特徴を持っていたのです。

 

その2 江戸の芝居小屋は擬似(見せかけの)土蔵造りだった


260年続いた江戸時代。その間に起こった大火は40数回を数えます。

徳川吉宗は防火に力を入れていて、南町奉行所の大岡越前守が最前線に立ちました。

当時の芝居小屋の屋根はこけら葺き(薄い板葺き)で、燃えると大きな火事になる。

なので「塗屋土蔵造り(屋根に粘土を塗り外装は土蔵造り)」にするよう指導したのです。

 

本格的な土蔵造りにするには、お金も時間もかかってしまう。

そこで、壁は薄い板(木摺:きづり)に砂漆喰と白漆喰を塗ったと考えられてました。

東京では証明できないが、鶴川座ならできるかもと調べました。

しかし、洋風の外観にするときに明治時代の壁は全て落とされてしまってました。

 

あるとき加古さんは別件で正面の庇(ひさし)の屋根裏を覗いてみました。

すると、野地板にバッテンバッテンのノコギリの目と白漆喰が残っているのを発見。

庇(ひさし)の野地板なら、こんなことをする必要は無いはず。

擬似土蔵造りの木摺を剥がして転用したので無いだろうかと推測しました。

 

レンガ風のタイルは大正時代の洋風改造のもので壁どめの木材が打ってある。

庇(ひさし)は、その下から伸びているから当時のものとみて間違いない。

ノコギリ目もはっきり見えており明治時代の壁板があっても不思議では無い。

この証拠が産出するかが今回の調査のポイントでした。

 

トタン屋根を板を剥がすと出てきた当時の壁板。

分かり難いが垂木に止めている以外に、縦に2本並んだ釘穴(白のチョーク)がある。

釘穴の間隔は2尺。鶴川座は関東の建物なので柱と柱の間隔は6尺(=一間)。

柱と柱の間に間柱を2本立てて釘を打てば間隔は2尺、見事に一致しました。

 

本当の証拠とするにはこの2尺の間柱の痕跡を全て調べる必要があります。

その最後の詰めは出来ませんが、鶴川座が擬似土蔵造りだったのは99%間違いない。

つまり、江戸時代の芝居小屋が擬似土蔵造りだったことが裏付けられたのです。

 

その3 江戸時代の屋根は見せかけの瓦葺き


火事を防ぐため中村勘三郎は大岡越前と芝居小屋を瓦葺きにする約束をしました。

ところが、実際に瓦葺きにすると重みで梁がたわむので客席に柱を立てざるを得なかった。

40年くらいは約束を守って柱を立てていたのが、それがなぜか無くなる。

客席に柱があると鬱陶しく、お上から叱られながらもこけら葺きにしていました。

明治時代に西洋からトタンの技術が伝わるまで、燃えない劇場は作れなかったのです。

鶴川座も客席には柱は無い、ということは….。

 

第一次期の土蔵造りの写真をみると木戸口は瓦葺きになっていました。

ところが、大屋根は鬼瓦も乗ってますが、良く見ると瓦葺きは木戸口の上だけ。

その奥はトタン葺きになっていました。

 

当時のものと思われる瓦

 

現在の鶴川座の屋根は全てトタン葺きになっている。

だけど、大正時代の半円形の下には明治時代の三角の屋根が残っている。

トタンも瓦葺きだった思われるところは葺き方が違うし歩けば凸凹している。

 

トタンを剥がせば瓦下地が出てくるはずだが、剥がせば雨漏りしてしまう。

取り壊し直前まで待って、前日の午後に剥がすと1.35尺間隔の釘穴がありました。

 

野地板の上に直接瓦を乗せることは無く、昔は3尺の杉皮を敷いて土を塗っていました。

杉皮を0.3尺重ねながら置くと長さは2.7尺。半分にすれば1.35尺。

杉皮の重ねた部分と中央に、押さえと土留めのための角材を打ったのと同じ間隔です。

これで、この部分は瓦葺きだったことが推測されます。

なお、鶴川座も初めは、こけら葺きだったのではと考えられていました。

しかし、釘穴が見当たらず最初からトタン葺きだったとされています。

厚みが1.5cmしかない擬似土蔵造りに、こけら葺きで軽く作った大屋根。

江戸時代の芝居小屋の建築歴史の生きた資料が、鶴川座には残されていたのです。

 

その4 鶴川座の原型が良くわかる


鶴川座は何度か改築されていますが、原型がみんな分かるようになっています。

例えば、この柱。このタイルは第三次期の改築の時に貼られたもの。

 

タイルの下は緑がかった灰色のペンキが塗られていて、その下は薄茶色の塗り。

第一次期の和風土蔵造りの時は、木肌を見せる塗りだったことがわかります。

今は、桟敷の手すりはありませんが柱に位置や太さ痕跡もあり復元が可能です。

 

柱の緑がかった灰色は明治時代に良くあるペンキの色。

豪華な飾りはブリキの型押し。安い既製品で華やかな洋館に見せる工夫です。

 

丹念に調べていくと、明治時代の第一次期にも大正時代の第二次期も復元できる。

鶴川座には、全ての時代の痕跡がほとんど残されていたのです。

 

両側の柱に残る跡から、客席の前側2m(赤い線のところ)まであった舞台。

 

今の天井板は、洋風建築にした時に新規に作られたもの。

しかし、最初の天井はと幾ら調べても明治時代の痕跡は見つかりませんでした。

 

屋根裏の板は鉋(カンナ)を掛けてあり、綺麗な肌を見せるように仕上げてある。

明治時代は天井板が無く、巨大な三角形の屋根裏が見えていたことが分かります。

板の厚みも2.4cmあるので、音響効果も良かったと思われるとか。

 

もっとも各時代の変遷が残されているのが舞台。

張り替えるのでなく、第一次期から第四次期まで上に貼り重ねられています。

第一次期の廻り舞台を第二次期の床板で回らなくしてしまい花道も廃止した。

第三次期に映画館になった時に舞台の切縮めが行われました。

 

その5 明治時代の廻り舞台が残されていた


明治時代の廻り舞台は滅多に無く、現存するのは熊本の八千代座くらい。

鶴川座の床板は、先に説明した通り第一次期の時の実物が残されています。

 

100年間閉ざされていた床下に入ると心柱が見えます。

 

そして、廻り舞台は、構造が分かる状態で保存されていました。

(下から)心柱に支えられた土台、コロが着いたリング状の遊動輪。

そして、役者が乗る円形の床(お盆のような形なので「盆」という)が見えます。

 

これは貴重なので取り外して資料として残すこととなりました。

遊動輪は、その上にある円弧状の土台に乗っていました。

土台の両はしにある細い板は車輪(コロ)が落ちないためのガイドです。

 

取り外された心柱。

 

まとめ 鶴川座は江戸三座の栄光と川越の経済力を示す象徴だった


鶴川座は明治時代に川越を象徴する土蔵造りの芝居小屋として誕生しました。

それが、大正時代になり洋風建築に、昭和には映画館となった。

  • 一棟に川越の伝統的な芸能建築の歴史を全て記憶する建物。
  • 江戸の近くにあって文化的に非常に密接な関係があり造りは江戸三座を彷彿。
  • 安普請があたり前の芝居小屋に対して作りが良く、川越の経済を示していた。

「鶴川座」はまさに川越を象徴する芝居小屋だった。

それが、加古さんがこれまでの調査を通しての考証です。

 

最後に、これまで、加古さんらがやってきたことが紹介されました。

できれば、建物を保存できるほどの部材を格納したかったそう。

ですが、時間も土地もなくてできず、非常に残念な結果となりました。

 

こちらの記事でも微力ながら幾つかの写真を掲載しておきます。

 

その後の鶴川座


こうして惜しまれつつ取り壊しが決定した鶴川座。

解体工事が始まったのをFacebookで知り、7月21日に立ち寄って見るとこんな状態。

映画館の時代の看板が取り外され、洋風建築時代の姿を見せていました。

 

 

そして、8月12日。蓮馨寺から見た「鶴川座」

 

すでに建物は取り壊されていました。

 

一部、部材が見えますが、これらは廃棄されてしまうのでしょう。

120年に渡り地元市民に親しまれてきた「鶴川座」

私たちに記憶を残し、この街から姿を消しました。

 

追記


私たちの前から完全に姿を消したと思っていた鶴川座。

蓮馨寺の前の信号待ちをしていた時に気づきました。

 

なんと、ごくわずかですが紅白のレンガが見えたのです。

構造上、手前の建物の壁になっているので壊せなかったのでしょう。

わずかではありますが、鶴川座は面影をこの街に残していました。

 


INFORMATION

鶴川座の調査結果報告および現場見学会

【開催】2019年6月30日(日)①10:00〜11:30、②13:00〜14:30 (記事は1回目のもの)

【会場】鶴川座(川越市連雀町8-3) 
    注)仮面ライダーのロケ地だったので「かもめビリヤード」となっています。

【主催】NPO法人川越蔵の会+木造劇場研究会

【HP】https://www.kuranokai.org/home.html

【FB】https://www.facebook.com/川越蔵の会

INFORMATION

「まちづくり講演会」のお知らせ

川越蔵の会の定期総会に合わせて「鶴川座」についての講演会が行われます。

【開催】2019年8月25日(日)15:00〜17:00

【場所】六塚会館(川越市元町2-8-13)

【題目】『関東の至宝「鶴川座」の取壊し -日本芝居小屋建築史における「鶴川座」の位置と意義-』

【講師】賀古 唯義(かこ ただよし)氏

【入場】会員以外も参加可能ですが、定員は60名で入場できないことがあります。

◆「まちづくり講演会」のお知らせ
題目:『関東の至宝「鶴川座」の取壊し -日本芝居小屋建築史における「鶴川座」の位置と意義-』
講師:賀古 唯義(かこ ただよし)氏
日時:8月25日(日)…